6. 記憶の座と記憶痕跡
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1. 記憶の座
記憶
ある場面で得た情報をのちに別の場面で使いうるという機能
生体の環境への適応能力を劇的に上昇させるもの
その時時の短期的な記憶の連なりがなければ意識も成立しないだろう
心理学における重要な研究対象で、さまざまな記憶モデルが提唱されてきた
短期記憶と長期記憶の区別
長期記憶における宣言的記憶と手続き的記憶の区別
より能動的に短期的な記憶保持を行うワーキングメモリの概念
生理心理学における記憶研究の主な標的
「記憶機能を司る脳部位はどこか」
「記憶とは脳の何がどのように変わることなのか」
「記憶の座」を知るための方法の一つは、記憶機能に障害を持つ患者の脳損傷部位を同定すること
健忘(amnesia)
脳損傷による永続的な全般的記憶障害のこと
外傷や疾病など様々な原因によって生じる
前向健忘
新しいことが記憶できなくなる症状
逆向健忘
脳損傷が起こった時点より前のことが思い出せなくなる症状
様々な症例に基づき、健忘患者は主に2つの脳部位損傷に分類される
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側頭葉内側部性健忘
側頭葉内側部(海馬や扁桃体)損傷
間脳性健忘
間脳(視床や乳糖体)損傷
健忘に関する有名な事例
H.M.(Henry G. Moalaison)
1953年、27歳のときにてんかん治療のため海馬を左右とも切除され、その後に記憶障害を患った
彼の知能指数は健常者の平均以上だったが、重い前向健忘と、手術前の数年間におよぶ逆向健忘があった
遅延反応課題や迷路課題、有名人の顔の再認課題などおいて顕著な障害が見られた
ただし鏡映描写課題のような手続き的記憶の課題では練習を重ねるにつれ、成績が向上した
海馬は手続き的記憶よりも宣言的記憶にとって重要であることがわかる
R.B.
H.M.に比べて限局した海馬損傷によって生じた記憶障害の例
虚血発作によって海馬CA1領域の細胞死が生じた
対連合学習や遅延再生テストの成績が著しく悪かった
N.A.
間脳損傷による健忘の事例
剣の先が鼻から脳へと貫通し、左側の視床背内側部を損傷
非言語的な記憶検査の成績は悪くなく、迷路学習も可能であったが、言語的記憶の障害がみられた
意識のある(覚醒したままの)人間の大脳皮質を脳の表面から電気刺激し、その時の主観的経験の言語報告に基づいて記憶の座を推測した研究
脳神経外科医のペンフィールドは、てんかん患者の外科的治療として脳を部分的に手術を行う際の事前の検査として、局所麻酔下で患者の大脳のさまざまな皮質部位を電気刺激した
その結果、側頭葉が電気刺激されたときに、患者は過去の経験に関するさまざまな視覚的心像・聴覚的心像を経験して言語報告したが、側頭葉以外の大脳葉への刺激ではそのような反応は生じなかった
この知見に基づくと、側頭葉もしくはその深部(海馬や扁桃体)の活性化が記憶の貯蔵に係る部位であることが示唆される
2. 海馬シナプスにおける長期増強
脳内の記憶痕跡(エングラム)は何なのか、というもlン台は数十年越しの議論の対象
1973年、ブリス(Bliss, T.V.P)とレモ(Lømo, T.)は、海馬におけるシナプス応答の長期増強(long-term potentiation:LTP)という現象を見出した(Bliss & Lømo, 1973)
彼らは、ウサギの海馬に刺激電極と記録電極を埋め込み、刺激電極を通じて弱い電気刺激をシナプス前繊維(シナプス部への入力繊維)に一定間隔で与えシナプス応答の大きさを記録するという手続きを継続して行いつつ、ごく短時間、高頻度の電気刺激をシナプス前繊維に与える機会を設けた
高頻度刺激を与える前と後とでシナプス応答の大きさを比較したところ、高頻度刺激を与えた後にはシナプス応答の大きさが増大し、長期間にわたりその大きくなった状態が持続した
彼らが長期増強を見出したのは海馬の歯状回シナプスにおいてであったが、その後、他の海馬下位領域であるCA3領域やCA1領域のシナプスにおいても同様の手続きによって長期増強が生じうることが示された
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記憶の座のひとつと考えられる海馬において見いだされた長期的なシナプス応答増大なので、この長期増強こそ記憶痕跡の有力な候補であると考えた多くの研究者により、長期増強のメカニズムや長期増強と記憶機能との関係が現在に至るまで盛んに調べられている
たった1秒程度の高頻度刺激という経験を海馬にさせるだけで、どのような細胞内メカニズムにおりシナプス応答の長期的な増強が生じるのか
海馬下位領域の一つであるCA1領域シナプス(CA3領域の錐体細胞の軸索であるシャファー側枝とCA1錐体細胞の間のシナプス)でみられる長期増強は、高頻度刺激時にシナプス後部に生じるCa2+流入が引き金となって誘導されることがわかっている
シャファー側枝の軸索終末部から放出される神経伝達物質(グルタミン酸)に対する受容体として、CA1錐体細胞の樹状突起にはAMPA受容体とNMDA受容体と呼ばれるグルタミン酸受容体のサブタイプが存在している(いずれもイオンチャネル型受容体)
テスト刺激によって放出される(少量の)グルタミン酸に対してはAMPA受容体のみが活性化される
テスト刺激
通常のシナプス応答を記録するために低頻度(10秒に1度など)でシナプス前繊維に与えられる短い刺激
このAMPA受容体内部のイオンチャネルを通って移動するイオンの流れによってシナプス応答が発生する
NMDA受容体が活性化されるためには「グルタミン酸の結合」と「周囲の膜電位の脱分極」という両方の条件が満たされる必要
テスト刺激に対しては(シナプス後膜のAMPA受容体の活性化による脱分極がそれほど大きくないため)NMDA受容体の活性化は生じない
ところが高頻度刺激の最中には、多量のグルタミン酸がシナプス間隙に神経伝達物質として放出されることによってまずAMPA受容体が著しく活性化され、その結果シナプス後膜に大きな脱分極が即座に生じて、その際にはNMDA受容体もグルタミン酸が結合すると活性化されうる状態になる
NMDA受容体が活性化されたときにチャネルを通って流入するイオンにはカルシウムイオン(Ca2+)が含まれ、このCa2+流入が引き金となって細胞内のキナーゼの活性化が引き起こされる
一方、この部位のAMPA受容体はCa2+を通さない
キナーゼ
様々なタンパク質をリン酸化という反応によって性質を変化させるためのタンパク質リン酸化酵素のこと
キナーゼによるリン酸化によってもたらされるもの
AMPA受容体が活性化した際にそのイオンチャネルを通るイオンが増加すること(コンダクタンスの上昇)
細胞内で待機している新たに合成されたAMPA受容体のシナプス後膜への挿入が促進されAMPA受容体数が増加すること
つまり、CA1領域のこのシナプスの場合、高頻度刺激が与えられた後はシナプス後部側の感度が上昇することにより、シンプス伝達効率が上昇する
ちなみにさらに長期にわたるシナプス応答の増大には、遺伝子発現の制御を介してタンパク質合成にかかわる長期的変化が伴うことが知られている
CA1以外の海馬下位領域においてみられる長期増強の誘導機序についても明らかになっている
歯状回ではCA1シナプスと類似の誘導機序が考えられている
CA3領域の苔状線維-錐体細胞間シナプスにおける長期増強には、シナプス前部の変化(伝達物質放出量の増加)が関与することが示されている
苔状線維
歯状回の神経細胞である顆粒細胞の軸索のこと
長期増強の誘導が神経細胞だけの現象でなく、グリア細胞による制御下にあることを示すデータがある
シャファー側枝への高頻度刺激によってCA1領域のシナプス周囲のグリア細胞の活動(細胞内Ca2+濃度の上昇)が引き起こされ、その結果生じるD-セリン(グリア細胞からの)放出がCA1シナプスの長期増強誘導に必須であった(Henneberger et al., 2010)
記憶痕跡の候補としてシナプス応答の長期増強を研究する際、今後は、シナプス周囲のグリア細胞の状態も考慮した誘導機序を構築する必要があるだろう
3. 海馬シナプス可塑性と記憶
長期増強の誘導の程度が記憶成績と相関していることを示す研究
モリスらは、ラット海馬の脳室にNMDA受容体の阻害剤(AP5)を投与しCA1領域の長期増強が生じない状態にした場合には、水迷路学習成績が低下することを示した(Morris et al., 1986)
タンらは遺伝子工学的手法を用い、海馬における長期増強が誘導されやすくする目的で、生まれつきNMDA受容体を多く有するような遺伝子改変マウスを作製した
その結果、野生型マウスの海馬では、長期増強が誘導されないような弱い高頻度刺激によっても、この遺伝子改変マウスの海馬では、長期増強が誘導されるという誘導閾値低下が見られ、また水迷路学習成績では遺伝子改変動物の方が学習達成に要する日数が少なかった(Tang et al., 1999)
パスタルコヴァらは、ひとたび誘導して発現した長期増強を元のレベルのシナプス応答に戻すはたらきのあるZIP(PKMゼータという酵素を阻害する作用をもつ物質)を動物に投与することにより、前日に獲得した回避訓練学習が阻害されるという結果を報告している(Pastalcova et al., 2006)
長期増強という現象が高頻度刺激という特殊な実験的手続きによって誘導されるだけでなく、動物が記憶したときに実際に脳の中で生じうることを示唆する研究
高頻度刺激のような人工的な刺激によってではなく、記憶課題を動物が経験すること自体によって海馬の長期増強が生じうることが、ホイットロックらによって示された(Whitlock et al., 2006)
ラットが課題箱の中で電気ショックを受けるという恐怖条件づけ課題を経験したところ、その課題箱と電気ショックとの連合という経験を経ること自体が、海馬CA1領域に埋め込まれた複数の電極から記録されるシナプス応答の長期増強を誘導した
更に興味深いことに、この研究では海馬CA1領域に埋め込んだ複数の電極すべてから長期増強がこの学習経験後に検出されたわけではなく、応答の大きさが課題前後でほとんど変化しないシナプスや、あるいはむしろ長期的にシナプス応答が抑制される現象である長期抑圧(long-term depression:LTD)が見られたシナプスもあった
記憶の際、海馬のシナプス可塑性が生じる空間的パターンが記憶内容によってどのように異なるのか、といった解析が今後の課題のひとつであり、後述の光遺伝学の技法を用いた研究はこの目的のために有用であると考えられる
4. 神経細胞新生
大人の脳では、神経細胞が新たに生まれることはなく死滅する一方である、と長年考えられていたので、神経細胞の存在自体の変化が記憶痕跡になりうるとは考えられていなかった
神経細胞新生(ニューロン新生:neurogenesis)
1980年代後半になって、大人の脳においても一部の部位においては新たに神経細胞が生まれ続けていることがわかった
少なくとも脳の2ヶ所、すなわち海馬の歯状回と側脳室壁脳室下帯で神経細胞新生が確認されている
側脳室壁脳室下帯で生じた神経細胞は嗅球に移動する
新たに生まれた神経細胞は、その部位の神経回路網の一部となり、元から存在する神経細胞と同様に機能することから、記憶に重要な役割を果たす海馬の一部である歯状回の神経細胞新生と記憶の関連について近年研究が盛ん
細胞分裂阻害剤であるMAM(methylazoxymethanol acetate)を投与することにより神経細胞新生を阻害すると瞬目条件づけが阻害された例(Shors et al., 2001)、遺伝子工学的手法を用いてマウス成体の神経細胞新生のみを阻害すると歯状回の長期増強が抑制され(Massa et al., 2011)、空間学習成績が低下する(Duplet et al., 2008)といった例などがある
海馬の中で歯状回でのみ生じる現象ではあるが、神経細胞新生は記憶痕跡の新たな候補としてさらに研究が進められつつある
5. 光遺伝学を利用した記憶痕跡研究
光遺伝学(オプトジェネティクス)
神経科学研究における新たなツールとして注目されている
光で活性化されるイオンチャネルを動物の脳の神経細胞に発現させることにより、ある特定の脳領域や神経細胞を光照射によって興奮させたり抑制させたりする技術
微生物の光受容タンパク質のうちチャネルロドプシン2(ChR2)は青色光を受けてチャネルが活性化され、陽イオン(Na+, K+, Ca2+)を透過させる
ある特定の神経細胞に、遺伝子工学的な手法を用いてチャネルロドプシン2を発現させることができれば、その動物の脳に挿入した光ファイバーで青色光を照射することによって脳内の神経細胞を興奮させられる
この技法を応用した記憶痕跡の研究が行われている(Liu et al., 2012)
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ドキシサイクリン(Dox)を経口摂取している間は発現の仕組みが働かない
マウスの文脈恐怖条件づけのときに活性化された海馬神経細胞にチャネルロドプシン2を遺伝子工学的に発現させておき、それらを条件づけ後24時間の時点で改めて活性化させる
すると、この24時間後のセッションにおいては恐怖を引き起こす文脈(実験装置など)に置かれていないにもかかわらずマウスは恐怖反応であるフリージング(その場で動かなくなること)を示した
記憶の記銘時に活性化された海馬の神経細胞群が再び何らかの方法によって活性化することが想起を生じさせる、ということを示すデータであり、またどの神経細胞にチャネルロドプシン2が発現しているかを後に顕微鏡下で視認することもできる点で、様々な記憶の記銘と海馬神経細胞の活性化との関連を探る有力な方法になるかもしれない
→7. 学習と認知の神経基盤